原文


我見世間人

総為愛欲籌

求之有不得

心身更憂愁


縦恣其欲所

終是幾春秋

一受天堂楽

十為地獄因


因之長綢謬

譬如清秋夜

月華中流浮

瀰猴欲深之

相率水中投


苦哉三界子

不知何日休

遥夜熟思惟

涙下不能収


読み下し


我れ世間の人を見るに
総て愛欲のためにはかる
これを求めて得ざるあれば
心身更に憂愁す

たとひその欲する所を
ほしいままにするも
ついにこれ幾春秋ぞ
一たび天堂の楽を受けて
十たび地獄の囚となる

苦をもって苦を捨てんと欲す
これによってとこしえに
綢謬(ちゅうびゅう)す
譬へば清秋の夜
月華中流に浮ぶ
瀰猴(びこう)これを深らんと欲して
相率いて水中に投ずるが如し

いたましきかな三界の子
知らずいつの日か休まん
遥夜つらつら思惟すれば
涙下りて収むることあたわず


現代語訳

私が世間の人を見たところ
みな愛欲のための計らいばかり
その目的が満たされなければ
身も心もいよいよ憂いもだえる

しかしたとえ もし仮に
愛欲が存分に遂げられても
いったい何年続けられようか

一度は極楽のように
快楽を享受しても
十度地獄に堕ちて
囚われ人となるだけだ

苦でもって苦を捨てようと
必死にあがき苦しみを増す
それゆえに いつまでも
愛欲にまとわりつかれる

たとえてみればそれらは
澄んだ秋の夜空の下で
月影が川面に浮かび
猿どもがそれをすくい取ろうと
次々と水中に投身するようなもの

痛ましいことである
三界の衆生は一体いつになれば
この愚かさが止むのだろうか

長い夜につくづくと
思いめぐらしながら
色々と考えるにつけて
涙がとめどもなく流れる
「新約聖書」の最期に位置する
「ヨハネの黙示録」の中では、
「天使と悪魔」が登場します。

ーーーーーーー

さて、天では戦いが起った。
ミカエルとその御使たちとが、
龍と戦ったのである。

龍もその使たちも応戦したが、 
勝てなかった。そして、もはや
天には彼らのおる所がなくなった。 

この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、
サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす
年を経たへびは、地に投げ落され、
使い達も、もろともに投げ落された。

その時わたしは、大きな声が
天でこう言うのを聞いた。

「今やわれらの神の救いと力と国と
神のキリストの権威とは、現れた。

われらの兄弟らを訴える者、
夜昼われらの神のみ前で
彼らを訴える者は、投げ落された。 

兄弟たちは、小羊の血と彼らの
あかしの言葉とによって、
彼にうち勝ち、
死に至るまでもそのいのちを
惜しまなかった。

それゆえ、
天とその中に住む者よ、大いに喜べ。

しかし、地と海よ、お前たちは
わざわいである。

悪魔が、
自分の時が短いのを知り、
激しい怒りをもって、
お前たちのところに
下ってきたからである。」

‭‭ヨハネの黙示録‬ ‭
12:7-12‬ ‭
http://bible.com/1820/rev.12.7-12.口語訳

「黙示録」というのは、
特別な状況というわけではなく
今現在のこの時代のことですね。

悪徳や人の心の荒廃がはびこり、
善良さや正義、愛徳や希望さえも
取り去られようとする世の中では、
正しく今こそが終わりの時であると
考える人も非常に多くなっています。


人間とは思えないほどの悪意を持ち、
他者をゴミのように排除する君主達。
嘘と偽善と詐術で人を落とし入れる、
凶悪極まりない指導者の群れの数々。


神や天使が存在するのと同じように、
悪魔とその信奉者も実在しています。

新約聖書だけではなく、
旧約聖書でも善と悪の戦いを
教訓的知恵として表しています。

知恵ある子は父の教訓をきく、
あざける者は、懲らしめをきかない。 

善良な人はその口の実によって
幸福を得るが、不信実な者の願いは
暴虐である。 

口を守る者はその命を守り、
唇を大きく開く者には滅びが来る。

 なまけ者の心は、願い求めても、
何も得ないが、勤め働く者の心は
豊かに満たされる。

 正しい人は偽りを憎むが、
悪しき人は恥ずべく、
忌まわしくふるまう。 

正義は道をまっすぐ歩む者を守り、
罪は悪しき者を倒す。 

富んでいると偽って、
何も持たない者がいる。
貧しいと偽って、
多くの富を持つ者がいる。 

人の富はその命をあがなうが、
貧しい者にはあがなうべき富がない。 

正しい者の光は輝き、
悪しき者のともしびは消される。 

高ぶりはただ争いを生じる、
勧告をきく者は知恵がある。



‭‭箴言‬ ‭

13:1-10‬ ‭

http://bible.com/1820/pro.13.1-10.口語訳

「神と天使達が、
悪魔や堕天使と戦う」
というだけではなく、
戦いには人も加わります。

地上の世界では人間が
悪に打ち勝つ力を授かり、
世の光として明るく照らし
世の塩として清めています。

「主の民」として宣言し、
JESUSの勝利を信じる者は
真実の愛と福音を広めようと
十字架の道を進んでいます。

オカルト映画などではよく、
悪魔に攻撃を受けて傷付いたり
悪魔に挑戦し勝利する人も居ます。

「聖人」と呼ばれる人だとか、
「エクソシスト(祓魔師)」
による悪魔との戦いは、実際に
昔から数多く繰り広げられています。

「天使vs悪魔」という図式は、
イメージ的に分かりやすいです。
しかし、肝心な事はほとんど
知られていないのが現実です。

天使や悪魔は自分とどんな
関係があるのだろうか?
いつ、どういう状況で
それらは現れるのか?

そもそも、神や天使たち、
悪魔や堕天使とは何者か?
天使と悪魔はなぜ戦うのか?
人はどの様に関わっているのか?

「悪魔憑き」である場合、
自由意思を全て明け渡して
悪の言いなりになるくらい
病んでしまう重症な人です。

「悪に惑わされる人」
「悪に悩まされる人」
「悪に誘惑される人」
「悪に囚われる人」

神を信じず愛を知らなければ、
悪の言いなりになるでしょう。

「悪に恐れる人」
「悪の声に耳を傾ける人」
「悪の道を選ぶ人」
「悪に打ち勝つ努力をしない人」

実際問題として、世の中には多く
「悪の道にそそのかされる人」が
存在しているというのも事実です。

人の世に希望をもたらしてくれる
神も天使も存在するのですけれど、
悪魔や堕天使もまた実在しています。

天国や地獄の存在さえも、現代では
作り話の様に考える人が多くいます。
実際に天国や地獄が存在するのなら、
それは一体どこにあるのでしょう。



JESUS(イエス様)によって、
全人類が本当に救われる様にと
天に至る道は示されています。

十字架によるあがないを通して
全ての悪に打ち勝つ力は完成し、
真の安心と平和な心が生まれました。

天の神は力強い無限の愛によって、
全ての幸せと喜びを与えようします。
JESUSを救い主と認め受け入れる時、
天国を実現させる力が生まれるのです。

それは、幻想でもなければ、
夢物語の作り話でもありません。

実際に、病んだ人は癒やされ、
盲目が目を開いて見ることが出来、
足の萎えた人が歩ける様になって、
死者さえも復活させるというのです!

悪に立ち向かうことによって、
打ち勝つことも得られるのです。
それは人間の手柄なんかではなく、
神の力、聖霊の助けがあるからです。

真実の愛を通して無限の力強さを
この世にあっても発揮出来ますが、
それらは全てJESUSの名を通して
天の父が許す愛の現れだからです。





Facebook友だちが、

英語から翻訳した記事より引用。



最近、クリスチャン達の間で ようやく

「神の癒し、奇跡」に目が向けられ、

  それらが 今も ある

ということが認識されつつあることは
嬉しいことです。

神の癒しをこの目で見るのは

本当に素晴らしいことです。


私は数年以上前から
神の癒しに関心を持ち、
実際に体験しています。

Facebook友達による

Praying Medicの本

を読んで多くのことを学びました。

以下は、彼の本

「Divine Healing Made Simple」

の一部を翻訳したものです。

ーーーーーーーーーーーーーー

癒しのミニストリーをする際の留意点


時々 私は、
「店でまったく知らない人に
どのように近寄って、
癒してほしいかどうか聞くのですか?」
という質問を受けます。

誰でも初めて会う人は見知らぬ人です。


私達が誰かと出会う時、
関係を築くか、
壊すかのどちらかです。

知らない人を癒したいのなら、
少なくとも彼らの名前を
知らなければなりません

(私の個人的な考えですが、

それは出発点であって、

それから先へ

進まなければなりません)。



 知らない人に近づくには
いろいろな方法があります。
良い方法もありますが、
悪い方法もあります。

マイクを持って道に立ち、

誰かを癒したい!

と言うこともできます。

3メートル離れた場所から
人々の癒しを命じることもできます。
彼らの何人かは
癒されるかもしれません。

でもそれは
効果的なやり方ではないでしょう。

私達のほとんどは
神の代理人の話を聞く前に、
その人について
何かを知りたいと思います。

教会で誰かがスピーチをする時には、
その人の経歴が紹介されるものです。
それは私達の文化の一部です。

二、三年前、私は
ホームページを通して
「北西の預言者」に出会いました。

彼の書いたものがとても気に入り、
彼とメールを交わすようになりました。

彼はとても丁寧に辛抱強く、
私のいくつかの質問に答えて、
残りの答えは自分で見つける
ように 私を励ましました。

そのうちに私達は良い友人になり、
彼が私を生徒としてではなく、
対等に見てくれていることに
気が付きました。

ある日 私は彼にあることについて
メールをしましたが、そのことで
彼は次のような返事をくれました。



 以前、私は広大な海に浮かぶ島々の
ネットワークイメージを見たことがある。
それらの島々は色々な橋で結ばれていた。

島々は人々を現わし、
架け橋は人々との関係を現わしていた。

多くの架け橋を持った島もあれば、
ほんの少しの架け橋しかない島、
まったく橋が架かっていない島も
少しだがあった。

また、橋の種類は様々だった。
壊れそうな歩道橋、ロープ製の橋、
狭い木橋があった。
丸太を倒しただけの橋もある一方で、
頑丈な石橋、近代的な鉄橋、
コンクリート製の橋もあった。

 「誰も孤島ではない」と
ジョン・ダンが言うように、
完全に自給自足の人はいない。

私は島に必要なものをたくさん
生産するかもしれないが、
他の人から必要とするものもある。  

もし私が、自分が作れるものだけで
やって行くなら、原始的な生活を
しなければならない。
車、携帯電話、パソコン、トイレット
ペーパーのない生活だ。
これらは重工業なしでは
生産できないものだ。

もしコーヒーがほしいなら、
私は自分の島で作る何かと、 
誰かの作るコーヒーを
取り引きしなければならない
(例えば私が大工だとする)。

もちろんそのためには架け橋が必要だ。
しかし どんな橋でもいいわけではない。

木の家具を運べる橋が必要だ。
ロープの橋では無理だろう。
実際のところ、倒れた丸太は問題外だし
狭い木橋も無理だろう。

コーヒー製造者はほとんどの橋を
使えるだろうが、私の作ったものは
大きな橋が必要だ。
隣の島の石屋の場合は
相当頑丈な橋が必要だ。

 リック・ジョイナーが かつて
言っていたが、ミニストリーのために、
神が彼をどこかに送り出す時、

彼の関心事は

人々が彼をどのように受け入れるか

だそうだ。

もし彼らが彼を牧師、

またはミニストリー指導者として

見るなら、彼がもたらす以上のものを
彼らは受け取るだろう。

もし、彼らが彼を預言者として

見るなら、もっと大きなものを
受けるだろう。そしてもし、

彼を使徒として迎えるなら、

彼らにとって全部の兵器庫を
もたらすことになる。

リックは彼らと彼との架け橋が
どんな種類か見ているわけだ。

もし、それが神のことに

あまり理解がなく、

ほとんど信頼をおいていないなら、

それは小さな架け橋で、
小さなミニストリー、
ただの牧師としての奉仕しか
できないことになる。

何度も訪れるうちに

その橋は強くなり、

使徒的ミニストリーを

支えるものになる。



 もし、私があなたとまったく

関係がないなら、神があなたに

与えた任務のために

あなたに教え、強め、励まし、

整えることはできないだろう。


同じように 私もあなたから力や、
励ましを受けることは不可能だろう。

専門的にミニストリーをしている人

もいるが、ほとんどが 聖書の啓示や

預言の言葉を支持する架け橋を

持っていない。


 私が何人かの人々と話す上で、

一番にしなければならないことは

彼らと関係を築くことだ。


彼らと一緒にいるのが 二、三分かも
しれないし、一時間かもしれない。

だから早くその仕事を

しなければならない。


私はジョーク、話、実例を使って
その仕事をする。
幸いにも私は教える賜物を
神から与えられているし、
聖霊は彼らの内に住まわれる
のがお好きだ。

聖霊はその仕事を私よりも簡単に
素早くされる。こうは言っても、

ある程度時間がかかるのは確かだ。


また、私が彼らに
何か価値あるものを
持って行きたいなら、

橋が必要だ。


イエスでさえ、
ユダが30枚の銀貨を取りに
出かけた後、最後の晩餐で
受けた啓示を 全ての皆には
明かされなかった。

最も信頼していた11人の中の
3人にだけ、その重要な秘密を
明かされたのである。

それを聞くことができるのは

彼らがそのような関係を

持っていたからだ。


 聖書にある他の例としては

第一コリント3章

を見ると良いだろう。

パウロは「このミニストリーを
するためには、あなたの橋は
不完全だ」と言いたかった
のだろうと私は思う。

彼らは「ただの人」のように
歩んでいたので、パウロは
より重い問題について彼らに
教えることができなかったのだ。

同じことがへブル書5章も

同じことを言っている。


また、スケワの7人の息子達は
重過ぎるものを運ぼうとして、
関係の橋を壊した良い例と
言えるだろうし、
ステパノはその逆の例だろう。

最近、私は とある
クリスチャンの兄弟に
注意するために、
きついことを言う必要があった。

実は二年前にもそのことを
言ったのだが、私達の関係は
その言葉の重みに耐えうるだけの

関係がまだできていなかった。


それからの期間で私達は

関係を築き上げ、

彼はやっと人生における
その問題について

私が話すことを受け入れた。


そして今度は、その言葉の

重みを支えることができる

関係が私達の間にできていた。


彼には変化する
時間が必要だったのだ
(それは二、三年を要したが)。

私達は友達関係を保ち、
今は互いの人生について
話をしている。

そこで質問だが、

私とあなたの間には

この多くの肉を支える橋が

できているだろうか?


実際にはたいした重さではないが、

私達はまだ互いに共通する

多くの体験を持っていない

ということだ。


私はこの友達の言葉について
長い間考えました。
その後で私はリーダーの助言を
受け入れなかった知人達のことを
考えました。

彼らはリーダーと強い人間関係を
築いていなかったからです。

ある人々は教会を変えましたが、
不幸にも誰の助言も
聞き入れることができませんでした。

多くの牧師達は信徒のことを
理解していないので、彼らの
助言は信徒を傷つけたり
威嚇したりすることになるのです。

私は 「道行く人々に
地獄の裁きを大胆に述べる
伝道師」のことを思いました。

彼らは人々を呼び止めて

名前を聞くこともなく、

思いやりを持った行動を

するわけでもありません。


私は 「通りで怪我した人々を癒し、
見ている人に癒されることを証明し、
その後 立ち去る癒し手」
のことを考えました。

そして私はこの結論に達しました。

ミニストリーというのは

人間関係から流れるものだと。


 私達が 本当に 

癒しのミニストリーをしたい

と願うなら、どうすれば

人間関係の架け橋を

発展させることができるか

学ばなければなりません。


たとえそれが小さな橋であっても、
彼らは私達を信頼する根拠を
持つに違いありません。

癒しは天の御国における
彼らの人生の始まりです。

癒しや解放の後、彼らは
訓練が必要となるでしょう。

誰がそれをするのでしょう?

私達が彼らと関係を持っているなら、
それをサポートするのは私達です。

関係を保つミニストリーを
持つための方法が必要です。

そのようなミニストリーは

どうすれば見つけることが

できるでしょうか?


 効果的な見本を探すうちに、
私はイエスのなさった方法を
考えました。彼は様々な方法で
人々を癒されました。

病人の方から彼に近づいた

ことがありました。

病人の家族が彼に助けを求めた

こともありました。

いずれの場合も、

彼はご自分が誰なのか

わからせる必要は

ありませんでした。


彼らはイエスに癒す力があり、
彼を信頼していました。

イエスのされたことは
彼らに癒しの力を
解き放つことだけでした。

しかし、時には彼のことを何も

知らない新来者も癒されました。

では、イエスは どうやって

彼らの信頼を得たのでしょう?


 私が気に入っている手本は、
ヨハネ4章に記録されている
サマリアの井戸で
彼が出会った時のことです。

これが二人の出会いの
簡単な概略です。

・イエスはユダヤを去り、
サマリアを通って
ガリラヤに向かっておられる
(3~4節)。

・ある女と井戸で出会い、
水を飲ませてほしいと頼まれる
(7節)。

・彼女は彼の頼みに
不快感を持つ(9節)。

・彼らは水の性質について
議論する(10~15節)。

・イエスは彼女の現在の恋人と
以前の夫に関して預言される
(17~18節)。

・彼女は彼を預言者だと認める
(19節)。

・彼らは宗教的な慣例について
議論する(20~24節)。

・彼女はメシアの話題を持ちだす
(24節)。

・彼は彼こそがメシアだと
明らかにされる(25節)。


 イエスは初対面の人を選び、
数分間でご自分がメシアである
ことを彼女に確信させました。

私達は人々に自分達がメシアだと
確信させる必要はありません。
私達の任務はそれよりずっと
楽なものです。

私達は優しい言葉と行動を通して、
彼らを気にかけていることを示し、
イエスの癒しの力で彼らを
祝福するだけでよいのです。

 私は簡単なことを提案します。
数分の時間を取って下さい。

その人が癒されてほしいと

あなたが思っていることを

相手に教えてあげて下さい。


彼らがけがをしているなら、
どうしてそうなったのか
聞いて下さい。
天気や彼らの子供のことを
聞いて下さい。
あなたと彼らの共通点について
何か聞いて下さい。

悲しみが見えたら、

そのことについて聞いて下さい。

不安を感じ取ったなら、

何が怖いのか彼らに聞いて下さい。


彼らの言うことに耳を傾け、

思いやりを持って答えて下さい。


 知らない人に
働きかけようとする前に、
信頼の橋を確立するための
時間を作って下さい。

人々は あなたがどれほど

彼らを気遣っているか知るまで、

あなたが知っていることに

関心を持たないものです。


認知症の予防


認知症になる人が多い世の中
早めの対策が好ましいそうで、

物忘れが酷くなってからでは

遅すぎるとも言われています。


基礎代謝が落ちて肥満になりやすい

中高年である40代頃から始めたい

認知症の発症を予防する

最適な方法について


 

認知症予防について

 
 
今回ご紹介させていただく
引用記事のテーマとしては、

「認知症予防」についてです。



精神科医であり、
人気作家でもある

樺沢紫苑 医師が

認知症について
非常に分かりやすく
解説しています。
 
 
基本的に「物忘れ」は高齢
(60歳以上)になってから
現れるものとされています。

そのことからも、一般的には

認知症というのは高齢になって

発症する特殊な病気であると

多くの人から認識されています。
 
 
しかし、現実問題として、
最近は認知症の一種である
「アルツハイマー病」が
若年層の間でも広がってます。

少しずつではありますが、
認知症=高齢者という考え方が
明らかに崩れ始めています。



認知症と遺伝について


樺沢先生が言及されている通り、
「家族性アルツハイマー病」
などという、遺伝的な原因から
アルツハイマーが発症しやすい
家系があることがすでに
明らかになっています。
 
 
こういう特殊な遺伝子を持つ人を
長年に渡って研究したことにより、
認知症を発症するメカニズムなども
次第に明らかになってきたのです。

認知症が発症するまでには、
本来は長い年月を要します。
 
 
認知症を患う人の脳には
老人斑といって、

アミロイドβタンパクという

毒性の高いものが沈着し、

徐々に脳の働きを悪化させる

ということがあるそうです。

その行き着く先が認知症です。

 
 
最先端技術を駆使すれば

その様子が画像として

観察することもできます。
 
 
 

認知症が発症するメカニズム


長年の研究によって分かったのは、
例えば60歳で認知症を発症した場合

その10年前位に老人斑が出来ている

ということが明らかになっています。
 
 
つまり、認知症は60代に入って
突発的に起こるものではなくて、
老人斑が付着してから10年程度
年月をかけて起きるわけですから、

将来を見据えた予防が重要になる

ということが明らかでしょう。
 
 
 

「場当たり的な方法」

などでは効果がない!

 
 
最近物忘れが酷いからといって、
急に脳トレなどを始めたとしても、
一過性の予防策では残念ながら
大した効果は期待できません。

どっしりとした構えで
じっくりと腰を据えて

長期的に取り組む

必要があります。



そして、本当にそうしなければ、
逆に、強いストレスを無理矢理
脳に与え続けてしまうのです。

それが結果的に、逆効果となり、
最悪の場合、複雑な状況が深刻化
してしまうことになります。


ボケてきたからといって、
スパルタ式に老体に鞭打ち
脳を鍛えても手遅れです。

「年寄りの冷や水」
「生兵法は怪我の元」
などのことわざの通り、

認識力の低下が見られても
無理矢理に向上させる事は
付け焼き刃のもろさが出ます。

急激な脳トレーニングでは

認知症の症状が悪化する

という可能性すらあります。

そんな悲劇を招かないためにも
正しい知識は絶対に必要です。
 
 

認知症の予防策


それではどうすればいいでしょうか。

認知症の症状が明確に現れるのが
60代に多いというのであれば、

できるだけ早い段階で認知症の

予防として何か対策を取る

という必要があります。
 
 
樺沢先生は、40代後半から
対策を取ることを薦めています。

認知症の対策というと、
脳トレなどのように
脳を活性化するトレーニング
をイメージするかもしれませんが、

習慣化することが難しいです。

 
 

認知症予防に最も有効な方法

は、運動(有酸素運動)

だと言われています。


だからいって、それこそ格闘技や
サッカーのような激しいスポーツ
などは健康どころか身体の疲労が
激しくて体力を消耗するだけです。

脳を若くリフレッシュさせる

という目的のためには今一つです。

身体を酷使すればメンタル面でも
弱気になってしまうこともあり、
実際、あまりオススメできません。
 


適度な運動を習慣化する! 


ひとえに頭脳の活性化といっても、
脳トレや身体の酷使には意味がなく

最適な運動を効率的に習慣化する

のが確実な理想的方法だそうです。

脳トレや激しい運動なんかよりも、
ウォーキング、ストレッチ、軽めの
ジョギングなどは、脳だけではなく
身体の健康維持にも良いとされます。

しかも病気予防にとても効果的です。

運動の目安としては、週2~3回、

1時間程度の有酸素運動をする

というのが好ましいそうです。

これだけで、アルツハイマー病が
発症するリスクを3分の1程度に
抑えられるデータもあるそうです。
 
 
こうした予防策を60代に入って、
定年をきっかけに始めても遅いので、
40代、50代から適度な運動を
毎日の習慣化にしていきましょう。

これが今できる認知症予防としては
最も効果が高いものとされています。
 

今からでも遅くない


では、60歳を過ぎている人が
今から始めても遅いのでしょうか?

決してそんな事はないでしょう!


認知症の症状を進行させるのを

大幅に抑えることができる!

と信じて実行すればそうなります。


精神論的な安易な慰めではなく、
実際にそういった方々がいるのを
目の当たりにしている医療現場の
レポートなので本当に大丈夫です。

だからわくれぐれも
「自分はもうだめだ」
などとと思うことなく、

過ちに気付いたら

直ちに取り掛かり、

今できることを始める

のが とても大切です!





【動画】 
精神科医:樺沢紫苑先生のチャンネル 
 
「認知症予防 
物忘れは出てからでは遅すぎる!」

http://healthfitnessbeautydiet.com/blog-entry-200.html

星空ドリーミー童話シアター


Right now Light !

まさに今、光が!


Right now Light !

まさに今、光が!


第4話

Discern the Light

光を 見分ける




毎回この刑務所の夢を見続けるたびに、
実はこの世界の方が本当の現実であって
夢から覚めて起きている時の方が夢では
ないのかと思うようになりつつあった。

それだけ、夢にしては整合性と連続性が
取れている様な不思議な体験をしている。
先ほどとは違い、今度は壁に囲まれて
閉鎖されたエリアの中央辺りにいる。

各所に居る様々なグループを見ると、
あらゆるグループ内では多くの人が
目が見えている様で、他者に対して
脅威や恐怖を抱いてない様に見えた。


しかし よく観察しているうちに、
周りの影響を受けて ほとんどの
メンバーが 同じ様な表情になり、
視力や聴力が 次第に衰えて行く。


「分かりますか?私たちは初めから
目が見えなかったり 耳が聞こえない
というわけではなく、いつの間にか

それが 当たり前のことになるんです」


青年だけが 単独行動をしていて、
私の話に 興味を持ってくれたのが
今さらようやく 理解出来てきた。

純粋な瞳を持つ青年と 私とは、
周りの各グループから 遠く離れて
また再び 刑務所の壁の方に来た。

「ここでは、誰かの影響がすぐに
周りの人に及ぼされてしまうのか」

「ええ、おっしゃる通りです。
良い人がいると全ての人がみんな
良い人になって来るんですけど、
悪い影響もすぐに受けてしまって
結局は同じ場所にとどまるんです」


ありきたりな慰めをしても、たぶん
らちがあかないので、かなり厳しい
ぶっちゃけ話をすることになる。


「温度差だな。これは」

「え?温度差ですか?」

「心の温度差が人に強く影響する。

熱い所には熱い人が、冷たければ
冷たい人が集まるのが普通だが、

ここは生ぬるさが全体に蔓延して


暑さも寒さも何処かへ行っている。
ただひたすらに、蒸し返すような、
生温さ、気だるさ、倦怠感がある」


「ここにいる人は本来ならみんな
根は優しい人ばかりなんですけど、
心に平和も安心も満足もないんです。

まるで縛られた囚人みたいに。


自分を嫌う人は他の人に対しても
優しくなれないとよく聞きますが、
まさしくその通り、自分で自分を
本心から信頼していないんです」

「満足した人生を送るためには、
不要なものを捨てることだろう。
不必要な枝を切り捨てなくては
立派な杉に成長しないのと同様、
いつまでも無駄な荷物を抱えて
人生の長い旅路は進めないよ」

青年の心は少しずつ解放され、
笑顔にも覇気が加わって来た。

「成果や結果ではなくて、
行動の過程においても、
姿勢が大事っていうと
精神論ぽくなるけれど、
ポーズだけ、形だけだと
すぐ化けの皮が剥がれる」

「それが、この場所にいる人たち
だとあなたはおっしゃるんですね」

「どんなことからでも学んで
間違ってたら改めて直せば、
先に進めることができる!」

「あやまちやしくじりを正さず、
うやむやに誤魔化すことによって
ますます悪くなるということも、
認めざるを得ないですね。。。」


初めのうち、青年の心の中には、
少しでも自分たちを弁護しよう
という思いも見えたが、もはや、
現実を直視する覚悟を決めている。

青年はまさに今、

成長しつつある。


「例えば、謙遜であるのは
人間が社会生活を営む上で
本当にとても大切なことだ。

だからと言って、間違いなく
謙遜な人になろうなんて人は、
極めて稀にしか居ないだろう。

本当に人が謙遜になるのは、
神に対して祈っている時や
人に善を行う時でもない。
偽善者でもそれらは出来る。

人間は、常日頃からいつも、
宝物を持ち歩いているんだ。
それは、普段のふるまいで
実行する全ての場面で使う、
極めて重要で有益なものだ。

それは親からの教訓だったり
偉い先生からの知恵だったり
宗教や哲学的な信条だったり
人によって好きな歌だったり
映画やドラマだったりもする。

でもね。そこの一番の奥底には、

『良心』という大切な宝がある。


これを頭でっかちな考えから
平気で踏みにじってしまえば、
理屈で善悪を決めつけたりして

まさにそこから、

暗闇が入って来ることになる」


「『良心』ですか!?」
「そうだね。『良心』の
欠けた行動をしてると、
自分が暗闇に包まれても
わけがわからなくなる」


青年は寡黙に聞き続ける。
言葉をていねいに、本当に、
宝物を鑑定する人みたいに、

何でもかんでも丸呑みにする

事はせず、ゆっくりと咀嚼し、

玩味し、栄養を摂取する様に

理解しようとしているのだ。


夢の中ならそれでも良いのかも
しれないが、現実はそんなには
ゆっくりしていられない。もっと
高速度で動いたり止まったりするし、
理解なんて出来ないまま、判断とか
決定を迫られることも沢山ある。

「日常生活のなにげない所作が、

永遠を左右する大切な試験なんだ」 


さらに面食らった表情になるが、
青年は冷静さを保とうとしている。

背の高い巨大な壁の方に向かって
急ぎ気味で歩く足取りを速めると、
青年もまたその速さについて来る。

「人間は肉体だけでなく、心や霊が
宿っているんだが、信じてない人も

割とガチで多い。てか、ほとんどだ。


精神についても魂についても、マジで
理解なんて、しようとさえしていない。

たとえば、誰か、賢い人が研究して
発表した事は、受け入れようとする。

でも、真実の知恵、真実の光は、
聞くことも見ることもしない。

何故か?


見えてないからさ!


「よく言われるレジェンダリーな
フレーズを、ここで引用しよう!

実はこういう言葉ってのは、
日常会話でも話さなくっちゃ
覚えるたけじゃ意味がない」

「どんなフレーズですか?」

『偽預言者たちに気をつけなさい。

彼らは羊のなりをしてやって来るが

その内側は貪欲な狼である。

あなたがたは、その実によって

彼らを見分けることができる。

ぶどうは、いばらからは取れないし、

いちじくは、あざみから取れる

わけがないだろう』」

(マタイ伝七章、15から16節)


「そういう言葉は
普段から会話でも
使った方が良いんですね」

「まあ、それはそうなんだが
ほかにも色々とあるからね。

各自の所有する霊の本質は何かだ。


人様の霊を見分けてもいいんだけど、
自分がよくわかってなきゃダメだよ。
てか、それがまずは一番の基本かな。

人の体が清いか汚いか、臭いとか、
雰囲気でも何となくは感じるだろ?

うわーこいつ綺麗なんかなーって。

あーきれーやなー でもどーかなーて。

霊そのものが、聖なるものなのか、

それかあるいはその逆な、邪悪で

汚らわしく、禍々しい魔物なら、

どっかで見分けるコツもあるんだよ」


「な、なんでしょうか?それは!」

「その人の行動、仕草、在り方。

つまり、何をしたいかってこと。


天使と悪魔の境目っていうほど
じゃないかもしれないけれど、
霊を見分ける方法としての一つで、

明らかに示している基準ってのが

『日常生活での立ち居振る舞い』

ってことだったりもするんだ!」

「『謙遜』についてだったら、
人が本当に謙遜であるかどうか
本物か偽物かを知るためには、

『謙遜な人がどんな振る舞いを

するのか知ろうとしている』

わけなんだから、本人がどんな
日常生活をしているのかを見て
判断するということも出来る」

それは別に、監視者の管理下で
識別される厳しいもんでもない。

むしろそれやっちゃっていても、
それでもかえって悪に走ってく
腐敗と堕落と下衆の極みがある。
そうなったらいっかんのおしまい


「ありふれたひとこまの中で
どれだけの愛があるか調べ
謙遜が本物かを観察すると、

行動内容から自然に分かる」


「あれをしなければダメとか、
これをしてるからダメとか、
そんな基準じゃあないからね。

肉じゃなく、霊の世界の話だ」


「その心から出た行動が、

本当に本人の自由意思で

実を結ぶことを見るんだ」


「ここで一つ注意しなきゃいけない。

『実』というのは、霊の実のこと」


「御霊の実は、愛、喜び、平安、

寛容、親切、善意、誠実、柔和、

自制です。このようなものを

禁ずる律法はありません」

(ガラテヤ5:22~23)


と言われるように、どんな結果に
なろうとも、自分が何を目指して
行動しようとしたかで、あらゆる
内実が高まってきたりもする。」
 

指導者が『御霊の実』に結ばれてるか

否か、それが本物か偽物かを判断し、

見分けなくてはならない事も大事だ。


愛、喜び、平安は、神から来る恵み。

寛容、親切、善意は、人に与える宝物。

誠実、柔和、自制は、自分を支える柱。

 
『こーせーあーせーあーせーこーせー』
なんて直接的なことを言わなくても、
誰に何をいちいち言われなくたって、
自然に心で判断出来るようになれる。

それが『良心』が育った人間なんだ」



光を見分けるということは、
視力も確かに必要なんだけど
真実の救いの光かどうかは、
心の実を育てておかなくちゃ
偽物の光というのもある。


つづく

第4話

Discern the Light

光を 見分ける

〜〜完〜〜







「視力を回復して歩かないと、
目の光を失うことになるだろう。
そして、ここで死ぬことになる」

「視力を得るにはどうすれば
良いというのでしょうか?」

「真実の知恵とは誰なのか、
それを知ることから始まる。
本当の自由も得られるだろう」


第5話
Seeking the truth of Light
真実の光を 求めて



これまで様々な研究として
科学的に調査されてきている
応答型異言の事例としては、

カナダの生化学者・精神医学者である
イアン・スティーヴンソン
(Ian Pretyman Stevenson)
が報告している3例と、

イギリスの超心理学者
メアリ・バーリントン
(Mary Rose Barrington)
らが報告している1例がある。


スティーヴンソンによる3例のうち
2例は退行催眠(前世療法)時に
生じた事例であり、残りの1例と
バーリントンらが報告している1例は、
いわゆる憑依現象による事例である。



イェンセンの事例

(退行催眠時の真性異言) 


1955年から1956年にかけて、
英語を母語とするアメリカ人の
匿名女性に、夫の導入による
催眠状態の中で、イェンセン
(Jensen = 姓であり名ではない)
という過去世の男性人格が登場した。

慎重なスティーブンソンは、
可能性が高いとしながらも
真偽の判断は保留している。

この事例の主人公である女性は
ユダヤ系の両親の元において
フィラデルフィアで育っている。

両親ともロシア オデッサ生まれの移民。
両親をはじめ、この女性の生育歴を
見る限り、スウェーデン語を学んだ
形跡はないにも関わらず、退行催眠中に
登場するイェンセンはスウェーデン語の
母語話者と会話をすることができた。

8回の退行催眠セッションの間に、
6〜8回ほど母語話者と直接話をした。


イェンセンの話すスウェーデン語には
ノルウェーなまりがあり、また自分の
住んでいる場所をはじめいくつかの
地名を明らかにしたが、現在の地図で
どこに相当するのかは特定できなかった。




アメリカの言語学者
セアラ・トマソン
(Sarah Grey Thomason)
による再調査では、

イェンセンがスウェーデン語話者
であることを、納得を以て断言する
ことができなかった。

対話の中で勉学に励んだと語っていた
イェンセンの語彙は100語程度しか無く、
しかもその内60語ほどは対話相手が
先に用いた語であり、さらに

スティーヴンソンのコンサルタントの
一人が指摘したように、英語との
同族語を除いてしまえば
イェンセンの純粋なスウェーデン語の
語彙は31語程度に収まってしまう。


また、イェンセンが複雑な文章を
組み立てる事は無く返答は一二語ほどで
簡単に済ませてしまう。

スティーヴンソンも認めるように、
イェンセンのお粗末な発音は、
筆記転写による正確な綴りで補われていた。


しかしながらスティーヴンソンの
コンサルタントのうち2人は彼の
スウェーデン語のアクセントを賞讃し、
またある1人は「7」の発音が
母語話者のそれと比べて
正確であると断じた。


トマソンは、欺瞞を取り除こうとする
先のスティーヴンソンの努力を認めている。

しかし、
イェンセンのスウェーデン語能力は
「店で何かを買うのに、
代わりに支払うものは?」
という質問に対して
「私の妻」と答える程度のものであった。


後に言語学者ウィリアム・サマリン
(Willam John Samarin)も
トマソンの調査結果を追認している。





グレートヒェンの事例

(退行催眠時の真性異言)

英語を母語とするアメリカ人女性
ドローレス・ジェイ (Dolores Jay)が
催眠状態にある時に登場した
10代少女の人格で、
母語話者とドイツ語で
会話をすることができたという。

ウェスト・バージニア州で生まれ育った
ドローレスは、同州の育ちで
メソジスト牧師のキャロル・ジェイ
(Carrol Jay)の妻。

教区の信者の治療のために
催眠を用いていたキャロルが
妻に催眠をかけたところ、

ドイツ語を話すグレートヒェン
(Gretchen 。マルグレーテの愛称形)
なる人格が出現した。


スティーヴンソンは、グレートヒェンの
話した内容を詳細に分析した結果、
彼女が19世紀最後の四半世紀を
ドイツで送ったと考えるのに
十分な証拠があるとした。


グレートヒェンがドイツ語を話した
セッションは19回に及んでいる。

セッションの間、彼女は1度だけ 
ドイツ語の辞書を引いたが、
それ以前に206語もの単語が
自然に彼女の口から出てきていた、
とスティーヴンソンは指摘した。

トマソンによる再調査によれば、
欺瞞を示す証拠が認められた。

実は、グレートヒェンはドイツ語で
対話することができなかった。

彼女の発言は相手の質問を
抑揚を変えて繰り返すものが大半で、
その他はほんの一二語程度の
短い言葉のみであった。

また「ドイツ語の語彙は
ほんの僅かで、発音に難あり」
("German vocabulary is minute, 
and her pronunciation is spotty")
とされている。

語彙は120語程度で、十分な
意思疎通ができるレベルである
400〜800語にも遠く及ばない。

しかも、憶えている語彙も、英語と
同語源でよく似た形の単語ばかりであった。

例えば、「眠りの後には何がある?
(Was gibt es nach dem Schlafen?)」
という質問に対する彼女の回答は
「Schlafen ... Bettzimmer.」
であった。おそらく英語の
「bedroom」にあたる言葉を言おうとして、構成要素のそれぞれに対応するドイツ語の Bett と Zimmer を組み合わせたのだろうが、ドイツ語で寝室は Schafzimmer であり、Bettzimmer は宿泊施設の客室を指す。


ちなみに、スティーヴンソンは
この回答を「正解」としていた。

ドイツ北東部の都市エーベルスヴァルデについては、存在しない市長の名を挙げるなど、確かな事が一つも言えなかった。

またマルティン・ルターや宗教的迫害についての彼女の発言には、スティーヴンソンでさえ疑いを持っていた。

異言(いげん)とは、


グロソラリア、

(英: glossolalia 

< 希: γλωσσολαλιά = γλῶσσα
(glõssa 「舌、言語」)
+ λαλιά(laliá 「声;言語、言葉、
発話、説明、意見」)
=「舌から発せられる声」)あるいは

ゼノグロッシア/ゼノグロッシー

(英: xenoglossia/xenoglossy 
< ギリシア語で「異国の言語
(聞き慣れない言葉)を話すこと」)
の訳語である。

いずれも、学んだことのない

外国語もしくは意味不明の複雑な言語を

操ることができる超自然的な言語知識、

およびその現象を指す。

英語では、 glossolalia
「グロソラリア」 は主に
宗教の分野で使われており、
 xenoglossia/xenoglossy 
「ゼノグロッシー」は主に
超心理学の分野で使われる。

日本では、後者にあたる
超心理学に関する文脈で
区別の為に後者の異言を、
「真性異言」と訳す場合もある。

単に「異言」とだけ言う場合、
前者の宗教的な意味で用いられる
狭義の異言について主に取り扱われる。

「超心理学的な異言」については 、
「真性異言」として別格に扱われる。
 

超心理学分野で取り扱う「異言」
(真性異言、xenoglossy)は、
大きく二つに分けられている。

母語話者と直接意思疎通のできない

朗唱型異言 (recitative xenoglossy)

と、意思疎通の可能なごく少数の

応答型異言  (responsive xenoglossy) 


という 2つに大別されているが、
研究対象として より重視されるのは
応答型の異言とされている。

科学的かつ公正な 研究方法は 
どちらも確立されていない。

真性異言の存在を証明する
決定的なケースは、未だに 
見つかっていないとされる。


「真性異言」ということになると、

「学んだことのない外国語 もしくは

意味不明の複雑な言語を操ることが

できる超自然的な言語知識、および

その現象を指す、超心理学の用語」


という解説がなされており、広義の
意味では「異言」に間違いない。が、
宗教的文脈で用いられる狭義の「異言」
(グロソラリア、英: glossolalia)とは
はっきりと 明確に区別されている。

超心理学の分野では、

真性異言を朗唱型異言

(recitative xenoglossy)と

応答型異言

(responsive xenoglossy)の
2つに大別する。

朗唱型異言とは、

「知らないはずの言語を話したり

書いたりすることはできるが、

それを使って母語話者と

コミュニケーションすることは

できないという場合」である。


真性異言として報告されている
多くの事例はこちらに属する。

詳しく調べてみると、
無意識のうちに記憶していた
ものが何かの拍子に出てきた
だけという場合が多い。

一方で、応答型異言は、

「母語話者と意志の疎通ができる

という場合であり、研究対象としては

こちらの方が重要」とされている。


星空ドリーミー童話シアター

Right now Light !

まさに今、光が!



第3話

若い 使徒

Young apostle


目が見える、ということは、

どれほど価値ある尊いことだろう。



あれから しばらくして、
またもや 同じように私は
夢の中で あの刑務所の中に
いつの間にか 戻って来ていた。

祈りの中で 主の臨在に撃たれ
心は激しく 強められたが、
また再び この刑務所に戻り
果てしない 探索を続ける。

だが今回は 一人ぼっちではなく、
打ち解けて 話し合える相手がいる。
若い 黒人青年の友が出来たのだ。

「私たちは究極の視力を与えられる。

もし本当にその力を獲得出来れば、

それまでの古い見方や考え方でなく

人の内面を見ることが出来るんだよ」


私の話す言葉を 確かな面持ちで真剣に
耳を 傾けてくれており、そのあまりの
素直さや偏見のなさに とても感動する。

彼とほぼ同じ年齢であろう あの教師と
何という違いかと つくづく思ったが、
あまり気にせずに おくことにした。
同じ穴のムジナには なりたくないから。

この若者なら 本物の教師になるだろう。

言葉を続けながら 私はそう考えていた。

「もしそうなれば 肌の色や性別とか

年齢なんかで 人を判断しなくなる。

外見や肩書きや 名声とかじゃなくて、

霊によって 人を判断できるからだよ」



刑務所の中にいる人や 監視官が、もし
こんな話を 聞いた日には、飛び上がって
驚き、銃を持って 追っかけ回されるかも
と思ったが、今は冷静に 語るだけだ。

青年は、威儀を正しつつも心は興奮し、
ワクワクしている感じの顔だったが、
一つ一つを記憶の中から確認する様に
冷静さを取り戻して慎重に語り始めた。

「同じようなことを、教師たちも

よく私たちに言っていました!!」


青年は、本心から驚いている様子だった。

「それでも、そこには違いがあるよ」

と、私はその真面目な青年に言った。

これは本当に大切なことであるが、
自分を正当化するあまり相手を卑下
しすぎることもあまり良くない。
それでもやはり、事実は事実として
本当のことを伝える必要もある。

「私たちが全員 似た者同士だという

考え方を 植え付けようとしてるんだ」

それはまるで 洗脳しようとするみたいに。
言葉の表現に注意しながら 話を続ける。

「そもそも、私たちは、理由があって、

お互いに異なる者として造られている」


肌の色や年齢、性別、境遇も経験も違う。
日本に生まれようと外国だろうと結局は、
自民族のアイデンティティを保つために
努力しようとしても空回りする人が多い。

「真の平和は、私たちがそれぞれ違いを

持った存在としてお互い尊重し合う時に

初めて到来するものだからなんだよ!」


真昼から少し過ぎ、もう昼下がりだが、
夕暮れ時に近づいているのにまだ明るい。
天気が良いことで心まで晴れやかになる。

「自分がどういう者であるか 本当に

わかってくると 自分と違う人に対して

脅威を感じることも なくなってくる」


もともと人に恐れを抱くのはいけない。
イメージがあるから仕方ないとしても、
偏見を固守することは無駄の極みだろう。

「自分をよく理解することが出来れば、

そこにはもう、恐怖心がなくなるんだ」


「恐れが なくなるためには、

自分を 知ることが 必要なんですか」

青年は、一つ一つの言葉を大切に
かみしめるように口に出して話す。

「そうだね。自分の敵は自分自身。

闘う相手は他の誰でもないんだから」


「それもよく言われてきました。

自由になるために自分を越えろと」


あるあるすぎる精神論だが、そこには
根本的に欠如してるものも沢山ある。
個人を突き放して 自分は責任を負わず
全体の正義をふりかざすなど 愚物だ。

「もし私たちが本当に 解放されてたら、

自分たちと違う人に対して 敬意を払い、

配慮もできる。むしろ かえってお互い

いつも感謝して学び合おうとさえする」


「ちょうど、今、この時、

きみと私が、真実を求めて

こうやって話しているようにね」


純粋な瞳で見つめる先には、私でなく、
真の知恵と光があると 彼には見えている。

「もし人が、自分と違う人からでも

学ぼうとして心を開けば、いつでも

私たちの視力は強化されるんだ」


「学ぶために、心を開いたら…」

「ますます見えるようになるんだよ」


「それは、心の視力のことですね」
「うん、まあ、そういうことだ」

「自分に与えられているものの中で、
目が見えるということこそが もっとも
価値があるということを、心に留めて
おかなければならない。毎日、視力を
強化するのに役立つことをしなければ、
意味は全くないと言ってもいい」

「私たちの視力を失わせるような、人や

ものを避けるようにしないとダメですね」

「その通り。分かってきたみたいだね」


「わかりました。気分が落ち込んだり

逃げ出したくなるほど暗くなることは、

まさしくそういうことなんですね!」


「( That's exactly right!)

まさにその通りだよ!

落ち込むと、たいていの場合、

視力が失われ始めるんだからね」

と私は言った。

「目的を達成するためには、

たとえどんな形であっても、

落ち込んだり、失望したり、

恐れてはならないんですね!

落ち込むことによって、心の

目が見えなくなるんですね!」


彼には最初、純粋な熱心さはあったが
微笑みだとか明るさには欠けていた。
しかし、話をして一つひとつ理解して
いくうちに、微笑みと明るさが宿った。

「自分の目的を知るということこそ、

視力を強化するためには 最も有効な

手段の一つなんだ。さらに それは、

失望して 視力を失うようなことを

避けるためにも、とても有効な手だ」


青年は、非常に大きな衝撃を受けた様な
驚いた表情になっている。だがそこには、
険しさよりも 希望の光が見て取れる。
彼は今、大きく成長しつつある。


「全ての場所で真実だと言える、
ある一つの大切な原則があるんだ。
きみは生涯に渡って、その原則を
覚えていなければならないだろう」

「それは何でしょうか?」

「人は、神の作った天の原則に

逆らわなければ 必ず幸せになれる。

もちろんそれは、今までも聞いた
ことがあることだろう。だけどね、

天来の愛と知恵を持っていなければ、

人間の情愛や知識なんて役に立たない。


愛も知恵も、本来 人間の持ち物でなく

神様から預かって 有効利用するものだ。


だから、いくらどんなに愛とか知恵で
人が貴重な言葉を話したとしても、

聞く人が真理に対して心を開かず、

愛を感じなければ何の意味もない。


真理は、自己否定を要求するもの。

だけど、偽物の真理は、依存と隷属。


本当に、真実の光を得たいのであれば、
肉の性質が強かったり、富んだ人ほど
難しいと感じるし、決断を先延ばしに
してしまうもの。自分が可愛いから。

けれどそんなに 生ぬるく甘えてたら、
真理に対しても、不平や不満だとか
疑いが出てきてしまうものなんだよ。

愛するということは、自分以上に

相手を大切に思うことだろう?

それをいつまでも 時間を浪費して
考え込んだり 迷ったりするなんて
愚かさ というより 極悪さ だよね。

真実の光に照らされて、無限の愛に

生きるようにすれば、不平も消える。

恐れも、迷いも、疑いも、なくなる。


今すぐに、そこまでの要求はされない
としても、天の御国の福音を提示する
エバンジェリスト、伝道者クラスなら、
み言葉を伝えるために命も惜しまない。

だって、光が見えているから。真実が

どこで何をしてるかも 全て分かるから。


命を簡単にかけたり捨てたりする
極悪カルトな依存性隷属犯罪者も
世界中にもゴマンといるだろうが、

真実の知恵は 愛をもって人を見る。


人間は強くなくちゃダメだし、
優しくなきゃ人間の価値無いって
なんかどっかで聞いたことあるが、

愛も知恵も 両方とも大切だ。

しかもそれは 天来でなきゃダメ。

隷属から自由に解放されたければ

依存と温情から抜け出さないと。


いつまでも幼い子どもじゃないんだ。

大人のたしなみじゃないが、思い切り

高望みして、大きな希望を抱くんだよ!


どんな暗い闇の世でも 光は見えてくる。

君の心の中に 希望の火が消えない限り」


夕暮れ時になって、少しだけ肌寒くなる。

若い青年は、いつの間にか、使徒みたいに
熱く燃え上がる何かを内に秘めており、
たとえ今はまだ表に出してはいなくても、
私の目には見え、心がそれを感じていた。

将来的に有望な若者を見るのは、なんと
心が喜ばしく高鳴ることだろうか。




第3話

若い使徒

Young apostle

〜 完 〜

星空ドリーミー童話劇場

RIGHT NOW LIGHT!

〜 まさに いま 光が 〜

星空ドリーミー童話劇場
RIGHT NOW LIGHT!
〜 まさに いま 光が 〜

第ニ話

Sight unseen

【 見えない 視力 】


夢の中で、私は塀を歩いていたが、
安全だと思える間隔をとってから
さっきの牧師を振り返って見た。

彼はひどく興奮して、監視所の中を
行ったり来たりしていた。なぜ、
私の質問がそれほどまで彼を動揺
させてしまったのか不思議だった。

私の質問によって、彼は違った見方が
できるようになることもなく、むしろ
いっそう精神状態が不安定になって、
明らかに過剰な反応をしたのである。

「刑務所」「監視」「囚人」

明らかにそれ以外のものでは
ないのに、彼は認めたくない。

彼とのやりとりは成立しない。
私は別の場所へと移動して行く。

次の監視所に近づくにつれ、
再び私はその監視者の外見に
とても驚いてしまった。

今度は牧師ではないが、
25歳くらいの若い女性。

彼女に尋ねることにした。
「お聞きしてもよろしいですか?」
「どうぞ。どんなことでしょうか?」

刑務所の監視者であるはずの彼女は
相手を見下すような態度で言った。

その若い女性に対して私は、なぜ
「その場所」に立っているのかと
尋ねてみると、答えが返ってきた。

そんなこともわかっていないのかと
あきれて驚いている様子だった。

「私は学校教師です。教師ならば、

自分の学校にいるのは当然でしょう」


「ここはあなたの『学校』なんですね」

あえて「監視所」とは言わなかった。


またあんな目には会いたくない。
なるべく慎重に答えたまでだ。

「もちろんです。今ではもう、
三年もここにいます。このまま
人生をずっとここで過ごすかも
しれません。自分のやっている
ことを心から愛しています」

最後の言葉が、何か機械的だ。

もし追求したら、さらに何か深く
聞き出すことができるであろう。

しかし、あまり調子に乗って
ひどい目にあうのはごめんだ。

「ここの平和と安全が達成されるには

何が一番いい方法だとお考えですか?」


ここはあえて勇気を出して突っ込む。
無難だが、核心を突く質問をしてみた。

「もちろん、教育こそが一番です。

私たちはこの地球という宇宙船に
一緒に乗っていますので、仲良く
していかなければなりません」

女性は色々と教えてくれた。

「教育によって私たちは、

一般大衆が野蛮で狭量な

メンタリティーから解放され、

自由になれるように手助けを

しています。そして、私たちは
全員同じであり、もし全員が
社会のために自分たちの役割を
果たすなら、全員が共栄するのだ
ということが理解できるように、

彼らを助けているわけです」


「これはおもしろい考えですね」
と私は言った。おもしろい、
というのは、もちろん皮肉。

冗談ではない。ここに居る

囚人はかえってそういった

教育とやらにダメにされる。


真逆な事をしてるとしか思えない。

柔らかく、表現に気をつけながら
相手の逆鱗に触れないように言う。

「ですが私たちは皆が同じという
わけでもありませんよ。そのうえ、
下にいる人たちが皆、以前よりも
もっと分裂して、バラバラになって
しまっているのは興味深いことです」

少しだけ強めに本音を言ってみる。

「ことによると、あなたのその哲学を

少し修正すべき時がきたかもしれない

という風には、考えられませんか?」

彼女は、驚きかつ興奮して私を見た。

色々と言ってしまったのだけれど、
先ほどのように、暴力的に脅される
ということはなかったが、緊張する。

明らかに彼女の思いとしては、
わずかにほんの一瞬でさえも
私の言葉が正しいなどという
考えは存在してないみたいだ。

視力と恐れ

「失礼ですが、あなたの目は
全く見えていないのですか?」

ついに、彼女が口を開いて
私に対してそう言った。

「いえ、とてもよく見えています」
と私は答えた。

目の見えない人たちなら、
ここではたくさん見てきた。

「私は、ちょうど人々の中を
歩いて来ました。しかし、同じ
グループであんなに分裂と敵意が
あるのを見たことはありません」

「グループ間での争いが、
それまで以上にひどくなって
いるようにも思えますよ」

私の言葉により、この若い女性が
まるで顔を平手打ちされたような
ショックを受けたことがわかった。

誰かがこうしたことを言うなどとは、
彼女にはとても信じられないという
ような表情になっていった。まして、

こうした言葉にいくらかでも真実が

あろうなどとは、夢にも思わない

といった様子でもあった。


彼女の様子を観察しているうちに、
その彼女もまた、非常に目が悪く、
私の姿もかろうじて見えているだけ
にすぎないということがわかった。

あまりに高い塔にいるため、監視塔の
下にいる人々を見るすべさえなかった。

何が起きているのか、本当のところは

彼女にさえもわかっていなかったのだ。


それでも彼女は、すべてのものが
見えていると、本気で思っていた。

「私たちは世界を変えているのです」

彼女は、高慢にも、そう言ってのけた。

「自分の力で世界を変えている」という。
理想と現実のギャップが激しすぎる。

そうこうしているうちに、
来客が訪問することになる。

二人の女性が塀の上を歩いて
監視所の扉の方にやって来た。

五十代と思われる黒人女性と、
三十少し過ぎくらいで非常に
身なりのいい白人女性だったが、
二人とも自信に満ち、威厳があった。

彼女たちは、目が見えていた。
遠くまで見渡せる視力がある。

塀の最上部に到達したことからも
それは明らかだろう。だが私は、
すぐ後で異様なほど驚かされる。

初めに居た若い教師が、先ほどの
自称牧師と同じく銃をつかんで、
後から来た彼女たちに会おうと
監視所の外に出たのだ。

そしてそれは明らかに、彼女が
二人の女性にそれ以上近づいて
ほしくなかったと思われた。

監視者である自称学校教師は、
うわべだけ愛想よく、優越感を
ちらつかせ、婦人たちに挨拶した。

自分の優位性を印象づけようとして
彼女たちを威嚇するようにも見えた。

驚くことにその二人の女性は、
おずおずとした様子を見せ始め、
自分たちよりもはるかに若い教師に
過剰なほど慇懃な態度を取り始めた。

そばで成り行きに驚いていると、
教師はいらいらしながら、私の方を
振り向いた。私がその女性たちに何か
言うのではないかと思ったのである。

銃を指でいじりながら、彼女は私に

どこかに立ち去るように言ってきた。


威嚇でも警告でもなく、今にも本気で

銃口から火が吹きそうな凄味があった。


婦人たちは、彼女が話している相手、
つまり私を見ようと顔を上げたが、

何故か私を見ることができなかった。


あろうことか彼女たちはいつの間にか

恐れによって目が見えなくなっていた。


恐れにより、視力が奪われる?
そんなことがあるのだろうか。
だが現実に、そのように見えた。

大声でその女性たちに叫びかける。
「勇気をもって自分たちの心で
感じたことを信じなさい!」と。
ただ私はひたすらに嘆願していた。

彼女たちの命にかかわることなのに、
私はそれが無意味な徒労だと気付く。

彼女たちは、単なる雑音か何か
物音を耳にしたかのように、
私のいる方向を見た。まるで、

何もない空間を見ているように。


それは、考えるのも不快な感じだ。

彼女たちは、目だけではなく、

耳で聞く能力も失われつつあった。


これを見て、先の若い教師は
余裕のある薄笑いを浮かべた。

そして、私に対して銃を向け、
ホイッスルを吹いたのである。

私のことを、もっとも危険な
人物だと知ったかのように。

それでも私は、ほんの少しだけ、
後ずさりすれば大丈夫だと知った。

この若い教師の目は、実際に、

それほど見えていなかったのだ。


恐れに取りつかれることからは
何とかまぬがれたのだが、私は
これから先、どこへ向かおうか。

二つの監視所の間の塀の上に立ち、
今までのことをすべてあれこれと
思いめぐらし、祈り始めていた。

「主よ、来てください。JESUS !
あなたの栄光によって、囚人を
この刑務所から助けてください」

すると私には、強い安心が訪れた。

知恵の臨在を感じることができたのだ。


ーーーーーーーーーーーー

「恐れのために目が見えなくなる」

ということを覚えておきなさい。

「わたしがあなたと共にいる」

という信仰をもって歩くなら、

行くべき道が常に見えています。


わたしがあなたをその場所に導いて
連れて行く人以外は、あなたがいま
「見ているもの」を示さないように
注意しなければなりません。

「視力」は、刑務所の

監視が最も恐れている

とても大切なものです。


「目の見えない人の視力」

「耳の聞こえない人の聴力」

これらは非常に不自由です。
そして、覚えておきなさい。

「耳の聞こえない盲目」

ということもあるのです。

「恐れによって、人は、

全ての感覚さえも失なう」

ということも忘れないように。

音も光も無くしてしまえば、
熱や光をどれほど浴びても
感覚が死んでしまっている。

炎に照らされ生まれ変わる
ということをしなければ、
命を得ることが出来ない。

どれほどわたしの方から
語りかけられたとしても、
何も分からず理解も出来ず、
何も感じないし考えられない。

これは、悪魔に憑依されて

縛られている人と同じです。


自分が信じていないからと

「神の愛に力がない」と思って

自分の不遇に言い訳しているなら

それは聖霊を冒瀆することです。


知恵を信じていない人というのは、

「罪を守っている」だけなのだから。


彼らは自分で知恵から離れておいて、

何でも責任転嫁して人のせいにする。


いくら形だけで人に合わせても、

その心はどこか遠くへ離れている。


自分が正しいことを立証しようと、

別の人を探して歩きまわり彷徨う。


同じような仲間を見つけてお互い

同情を求めて慰め合おうとする。


喜びを感じられないからといって

神が居なくなったわけではない。


神は感覚ではなく、真実だから。


真実の知恵の言葉を聞いて、

悟る努力をする者は幸いです。


ーーーーーーーーーーーー

つづく


第2話

Sight unseen

【 見えない 視力 】

〜完〜

星空ドリーミー童話劇場

RIGHT NOW LIGHT!

〜 まさに いま 光が 〜

RIGHT NOW LIGHT!

〜 まさに いま 光が 〜



星空ドリーミー童話劇場

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〜 まさに いま 光が 〜

第一話

prisoner of Light

【 光の 囚人 】



夢の中で私は、刑務所の構内に
ひとりで立ち尽くしていたが、
その場所は、見たこともないほど
巨大な塀で囲まれた空間だった。

たとえるなら、超大型の巨人が
アタックをしてしたとしても、
余裕で防げる分厚くて高い壁だ。

それが、視界の及ぶ限界を越えて
はるか彼方まで延々と続いている。

唐突に、その場全体が鉛色で、暗く、
陰うつな感じだと気付くことになる。

自分以外にも多くの人々が周りに居る
ことが分かり、まるでその影響として
暗い雰囲気がその場所全体に漂って、
集団の心を反映しているみたいだった。

かつて経験したこともないダークさに
度肝を抜かれたものの、慣れてくると
そこの構内全体の人々がどんな感じの
状況なのか、なんとなく分かってきた。

集団はそれぞれ、いくつかまとまった
グループに分かれて座っていたのだが、
肌の色や性別、年齢層ごとに分かれて
集まっている、という感じに思えた。

老年の黒人男性で一つのグループ、
若い黒人男性でもう一つのグループ、
白人男性もまた、老年層と若年層とで
分かれており、女性も同様に、人種や
年齢層ごとに別々に分かれていた。

刑務所の囚人たちを取り囲む塀の前に、
塀とは別にフェンスがあり、そこには
鋭い有刺鉄線が張り巡らされていた。

頑丈な塀の最上部には、数百メートル
おきに監視塔が設置され、それぞれの
監視塔にいる監視役の人影も見えた。

あまりにも遠くに離れていたせいで
細部まではよく見えなかったのだが、
確かに人の居る気配だけは感じられた。

あらゆる人種で、同じような感じで、
グループ分けがなされているみたいだ。

幼い子供たちを除き、はっきりした
特色のある人々は、それぞれ集まり
グループごとに分かれている。

グループとグループの間を、
多くの人々が歩き回っていた。

見ていると、その人々は、
自分たちによく似ている
グループを見つけることで、
自分たちのアイデンティティを
見つけようとしているらしい。

しかし明らかに、これらの集団は、
他の人をすぐに自分たちの仲間に
入れることはないだろう。

実際、そんなすぐには
打ち解けていなかった。

これらの人々をさらによくよく
観察していると、彼らには全員、
深い傷や多くの傷跡が見られた。

子供たちを除いて、彼ら全員、
目がほとんど見えていない。

自分たちの集団にとどまるだけで
精一杯であろうという様子だった。

自分たちのグループ内では、
誰か他の人が自分たちと何か
違った所がないかどうか、
絶えず見つけようとしていた。

もしわずかな違いでも見つけたら、
その違っている人を攻撃するのだ。

囚人たちは皆、飢え渇き、
病んでいるようにも見える。

ふと私は年配の男性に近づいて、
なぜここの人は全員、刑務所に
入っているのですかと尋ねた。

非常に驚いた様子で私を見ると、
「自分たちは決して刑務所になど
いないんだ!」と断言してきた。

彼は「なぜそのような愚かな
ことを聞くのか!」と言った。

私がフェンスや監視を指して
明らかに刑務所だと指摘しても
「フェンスだって? 監視だって?」
という真顔の返答が返ってきた。

彼はまるで、私から何かひどい
侮辱を受けたという顔をしており、
さらに質問しようものなら、私に
飛びかかってきそうな気配だった。

同じ質問を若い女性にしても、
やはり返事は同じものだった。

そこで私は、彼らの目は見えず、
フェンスや監視を見ることが
全然できないのだと悟った。

これらの人々は、自分たちが
刑務所にいることにまったく
気がついていないのである。

囚人たちに聞くのをあきらめ、
なぜ人々が刑務所にいるのか
監視に聞いてみることにした。

フェンスの方に歩いて行くと、
楽に登って通り抜けできそうな
穴があいているのも見えた。

塀にたどり着くと、その壁の表面は
でこぼこしていて、誰でも楽によじ
登ることもできそうだった。

実際試しに登ってみると、何事もなく
普通な感じで簡単に通り抜けられた。

誰でも簡単に脱出できるのだろうが、

誰ひとりそれを試みる人はいない。


彼らは、自分たちが捕らわれの身だ
ということを知らないからである。

塀の最上部までよじ登っていくと、
はるか彼方まで見通すことができた。

太陽が塀の向こう側で照っている
美しい景色さえも見えたのだが、

刑務所内に太陽は照っていない。


塀がとても高く、そしてその上には
何故か厚い雲がかかっている。

子供たちが集まっていた構内の遠く
離れた端っこの方では、火が見えた。

この火から立ちのぼっている煙が、
構内を覆う厚い雲となり、陰うつで
息苦しくさせていることに気付いた。

何が燃えているのだろうかと不思議に
思って塀の最上部を歩いて行くと、
監視所にたどり着いた。

驚いたことに、監視の人は、
教会の教職者しかつけない
カラーのついた立派なスーツ
を着ている。つまり、どこから

どう見ても、聖職者だ。


彼は私を見ても、別に動揺する
わけでもなく、私のことを同じ
監視の一人だ思ったようである。

「失礼ですが、なぜ、この人たちは
刑務所に入っているのですか?」
と私は尋ねた。

しかしその質問にショックを受け、
彼は一瞬のうちに顔に恐れと疑いの
表情が浮かんだ。「刑務所だって?」
と彼は答えた。「いったい何のことだ?」

「この刑務所構内にいる
あの人たちのことですよ」と、
不思議なほど大胆に私は言った。

「あなたは確かにこの刑務所の
監視人ですね。監視所に居るのだから。
でもどうして、あなたはそんな格好を
しておられるのですか?」と聞くと、

「とんでもない!
刑務所の監視だなんて!
私は、れっきとした

福音を伝える牧師だ!

彼らの監視なんかじゃない。

霊的指導者なんだ!!

これが監視所だって?

主の家に決まっているじゃないか!

いいか、たとえ今の質問が
冗談のつもりでも、
笑うつもりなどないからな!」

彼はそう言って銃をつかむと、

今にも私に向かって発砲しそうな

恐ろしい様子だった。


「ああ、お気にさわるようなことを
言ってしまいました。どうぞ、
お赦しください!」

彼が銃を使うにちがいないと思い、
私はあわててそう答えた。

そこを立ち去りながら、
いつ銃声が聞こえても
おかしくないと思った。

彼は精神状態がきわめて不安定で、
もし脅威を感じれば、それこそ
何も考えずに発砲したことだろう。

本当に彼は、本気の目だった。


自分が監視だということを、

本当に知らなかったのだ。


つづく




第一話  prisoner of Light

【 光の 囚人 】   〜完〜

ハウスオブデスティニー



JESUS は、あなた方の心を
いつも見ておられるんです。

心とは魂です。

魂と心は一つです。

心の中をいつも、毎日まいにち、
目に見えない所が見られています。

「あなた方が何をしてるか」
「善をしてるか悪をしてるか」
目に見える形じゃないんです。
あなた方の「心が何をしているか」です。

どんなに仕事でニコニコして、外でも
家に帰って来て、旦那さんも奥さんも
お互いニコニコと微笑んでいても、
本当に「心の微笑み」が、神に対して
あるのかどうかなんです。

自分が好かれたいから、周りに
微笑んで、自分を惹かれさせて
いるのかどうか。
自分が人に好かれたいから
微笑んでいるのか。

神は、その微笑みが、人にではなく、
もちろん人に微笑むことは大切です。
しかし、神は、人をひきつけるための
形だけの微笑みが、良くないとされる。

「自分に惹きつけて
自分に注目されたいから
微笑むのではない」と言われる。

神から来た聖霊の愛が心に降り、

その大きな愛を人に伝えるための

「こんにちは!(^_^)」

といった時の、その微笑み。


祈ってる時に、心から感謝して、

涙を流しても、何をしていても、

「神よこのお恵みをありがとう」

といった時の 心からの微笑み。


どんなに具合いが悪かろうが、

「神様が絶対良くしてくださる」

と信じる事が出来る時の微笑み。


「微笑みの人になって欲しい」

と神から言われているんです。

神はよく言われているんです。

「ここに来ても、あなた方は、

居るものもいれば居ないものもいる」

という言い方をされたんです。

「ここに、ただ参加している

者たちがいる」

と言われたんです。

「参加」は、
いないと一緒なんです。
「参加するだけでいい」
これは違います。
私達はオリンピックじゃありません。
体育系でもありません。
「参加」は絶対ダメだと。

何かやるんだったらそれは、一つの

「神と一緒の一つの家族」なんです。


あなた方がもし、自分の本当の
家族がいるとします。それを、
会いに行くのに、本当の自分の
自分を愛して育ててくれた親に

「私は今日親に会いに行くのに

参加しに行きます」


なんてことは言わないでしょう。
元から家族なんだから。

それと一緒に私たちは、

神様が家族なんですよ。

天の父と母と聖霊が、

家族なんですよ。


それを「私は参加します」
という形でいたら、

あなた方は他人なんです。

神にとって他人になってしまうんです。


そこ、分かりますか?
これ、簡単なことですよね。

「参加する者には聖霊は降りない」

と言われます。

聖霊は、何度も言いますけれども、
私達は聖霊なくしては何も語れないし
何も奇跡を行うことは出来ないし
人を癒すことも 神様を信じさせる
ということも出来ないんです。

自分の言葉だけでは絶対出来ないんです。
聖霊が仲介に入らないと、
聖霊の動きが口から出ないと
ダメなんです。

JESUS がなぜ十字架上で、
何度も何度も繰り返し言いますが、

「なぜ十字架上でJESUS が

死ななきゃならなかったのか」


罪がまったくないJESUS が。
もしそうでなければ私達の罪が
贖われなかったですよね?

あの十字架上で、はりつけになり、
苦しめられ、茨の冠から、
身体中むちで打たれて、
骨までむき出しにされた
あのイエズスの御身体。
そこから出て来た尊い血。

でも本人は「もうじき成就する」

と言われていて、「父よ父よ」

と言っていたんです。


でもその時に、
あの時の苦しみは、

「痛みだけの苦しみ」

じゃないんですよ。

わかります?

無原罪の人が、

全世界の罪を背負い

罪びととして、

十字架で苦しんだんです。


わかります?
みなさんが、自分自身の
各自が一人ずつの罪や、
忘れられないことのトラウマや
色々なもので苦しんでますよね、
人間として。

ちっちゃい、こんな小さいもので、
苦しまなくて良いもので苦しんで
ますよね?

それなのに、JESUS は、
無原罪ですよ?
全く罪のない神の息子ですよ?
それがこの全世界、
未来へかけてまでも
私たちの罪も全部、
ゲッセマネの園で

「この杯を取り除いてください」

「私が耐えきれるかどうか」

と言っていたんですよ。
ゲッセマネで祈られてた時。

「できるならこれを

取り除いてください」

「でもこれが私の意思でなく

神、天の父よ、あなたの望みならば、

そしてそれがわたしの望みだ」

と天の父に言われたんです。

そして、罪びととして、
罪人の仲間に入ったんです。

「神様は、信じるだけで
世の中を良くします」なんて
言う教会があるかもしれない。

それだったら、JESUS は、

「布教に行きなさい」って

言わなかったんです!

「宣教しに行け」って。


「病を持つものを癒しに行って

わたしの名において奇跡を行え」

って、言ってないことになるんです。

それが、「JESUS が言った」と

聖書に書いてあるってことは、

しろってことなんです。


「ただ信じれば」なんて、
「信じて何にもしなくて」
「ただ信じれば」

「普通に参加してれば救われる」

なんて、一つも書いてないんです。
わかりますか?

偽りの平和が、本当に自分を
だめにするんです。


エレミヤ33

エレミヤがなお監視の庭に
閉じ込められている時、
主の言葉はふたたび彼に臨んだ

「地を造られた主、それを形造って
堅く立たせられた主、その名を主と
名のっておられる者がこう仰せられる

わたしに呼び求めよ、そうすれば、
わたしはあなたに答える。そして
あなたの知らない大きな
隠されている事を、あなたに示す。 


イスラエルの神、主は塁と、つるぎとを防ぐために破壊されたこの町の家と、ユダの王の家についてこう言われる、 カルデヤびとは来て戦い、わたしが怒りと憤りをもって殺す人々の死体を、それに満たす。わたしは人々のもろもろの悪のために、この町にわたしの顔をおおい隠した。 見よ、わたしは健康と、いやしとを、ここにもたらして人々をいやし、豊かな繁栄と安全とを彼らに示す。 わたしはユダとイスラエルを再び栄えさせ、彼らを建てて、もとのようにする。 わたしは彼らがわたしに向かって犯した罪のすべてのとがを清め、彼らがわたしに向かって犯した罪と反逆のすべてのとがをゆるす。 この町は地のもろもろの民の前に、わたしのために喜びの名となり、誉となり、栄えとなる。彼らはわたしがわたしの民に施すもろもろの恵みのことを聞く。そして、わたしがこの町に施すもろもろの恵みと、もろもろの繁栄のために恐れて身をふるわす。 主はこう言われる、あなたがたが、『それは荒れて、人もおらず獣もいない』というこの所、すなわち、荒れて、人もおらず住む者もなく、獣もいないユダの町とエルサレムのちまたに、 再び喜びの声、楽しみの声、花婿の声、花嫁の声、および/『万軍の主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみは、いつまでも絶えることがない』といって、感謝の供え物を主の宮に携えてくる者の声が聞える。それは、わたしがこの地を再び栄えさせて初めのようにするからであると主は言われる。 万軍の主はこう言われる、荒れて、人もおらず獣もいないこの所と、そのすべての町々に再びその群れを伏させる牧者のすまいがあるようになる。 山地の町々と、平地の町々と、ネゲブの町々と、ベニヤミンの地、エルサレムの周囲と、ユダの町々で、群れは再びそれを数える者の手の下を通りすぎると主は言われる。 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に約束したことをなし遂げる日が来る。 その日、その時になるならば、わたしはダビデのために一つの正しい枝を生じさせよう。彼は公平と正義を地に行う。 その日、ユダは救を得、エルサレムは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。 主はこう仰せられる、イスラエルの家の位に座する人がダビデの子孫のうちに欠けることはない。 またわたしの前に燔祭をささげ、素祭を焼き、つねに犠牲をささげる人が、レビびとである祭司のうちに絶えることはない」。 主の言葉はエレミヤに臨んだ、 「主はこう仰せられる、もしあなたがたが、昼と結んだわたしの契約を破り、また夜と結んだわたしの契約を破り、昼と夜が定められた時に来ないようにすることができるならば、 しもべダビデとわたしが結んだ契約もまた破れ、彼はその位に座して王となる子を与えられない。またわたしがわたしに仕えるレビびとである祭司に立てた契約も破れる。 天の星は数えることができず、浜の砂は量ることができない。そのようにわたしは、しもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビびとである祭司の数を増そう」。 主の言葉はエレミヤに臨んだ、 「あなたはこの民が、『主は自ら選んだ二つのやからを捨てた』といっているのを聞かないか。彼らはこのようにわたしの民を侮って、これを国とみなさないのである。 主はこう言われる「もしわたしが昼と夜とに契約を立てず、また天地のおきてを定めなかったのであれば、 わたしは、ヤコブとわたしのしもべダビデとの子孫を捨てて、再び彼の子孫のうちからアブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばない。わたしは彼らを再び栄えさせ、彼らにあわれみをたれよう
‭‭エレミヤ書‬ ‭33:1-26‬ ‭

http://bible.com/1820/jer.33.1-26.口語訳