イエスの癒やし

Facebook友だちが、

英語から翻訳した記事より引用。



最近、クリスチャン達の間で ようやく

「神の癒し、奇跡」に目が向けられ、

  それらが 今も ある

ということが認識されつつあることは
嬉しいことです。

神の癒しをこの目で見るのは

本当に素晴らしいことです。


私は数年以上前から
神の癒しに関心を持ち、
実際に体験しています。

Facebook友達による

Praying Medicの本

を読んで多くのことを学びました。

以下は、彼の本

「Divine Healing Made Simple」

の一部を翻訳したものです。

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癒しのミニストリーをする際の留意点


時々 私は、
「店でまったく知らない人に
どのように近寄って、
癒してほしいかどうか聞くのですか?」
という質問を受けます。

誰でも初めて会う人は見知らぬ人です。


私達が誰かと出会う時、
関係を築くか、
壊すかのどちらかです。

知らない人を癒したいのなら、
少なくとも彼らの名前を
知らなければなりません

(私の個人的な考えですが、

それは出発点であって、

それから先へ

進まなければなりません)。



 知らない人に近づくには
いろいろな方法があります。
良い方法もありますが、
悪い方法もあります。

マイクを持って道に立ち、

誰かを癒したい!

と言うこともできます。

3メートル離れた場所から
人々の癒しを命じることもできます。
彼らの何人かは
癒されるかもしれません。

でもそれは
効果的なやり方ではないでしょう。

私達のほとんどは
神の代理人の話を聞く前に、
その人について
何かを知りたいと思います。

教会で誰かがスピーチをする時には、
その人の経歴が紹介されるものです。
それは私達の文化の一部です。

二、三年前、私は
ホームページを通して
「北西の預言者」に出会いました。

彼の書いたものがとても気に入り、
彼とメールを交わすようになりました。

彼はとても丁寧に辛抱強く、
私のいくつかの質問に答えて、
残りの答えは自分で見つける
ように 私を励ましました。

そのうちに私達は良い友人になり、
彼が私を生徒としてではなく、
対等に見てくれていることに
気が付きました。

ある日 私は彼にあることについて
メールをしましたが、そのことで
彼は次のような返事をくれました。



 以前、私は広大な海に浮かぶ島々の
ネットワークイメージを見たことがある。
それらの島々は色々な橋で結ばれていた。

島々は人々を現わし、
架け橋は人々との関係を現わしていた。

多くの架け橋を持った島もあれば、
ほんの少しの架け橋しかない島、
まったく橋が架かっていない島も
少しだがあった。

また、橋の種類は様々だった。
壊れそうな歩道橋、ロープ製の橋、
狭い木橋があった。
丸太を倒しただけの橋もある一方で、
頑丈な石橋、近代的な鉄橋、
コンクリート製の橋もあった。

 「誰も孤島ではない」と
ジョン・ダンが言うように、
完全に自給自足の人はいない。

私は島に必要なものをたくさん
生産するかもしれないが、
他の人から必要とするものもある。  

もし私が、自分が作れるものだけで
やって行くなら、原始的な生活を
しなければならない。
車、携帯電話、パソコン、トイレット
ペーパーのない生活だ。
これらは重工業なしでは
生産できないものだ。

もしコーヒーがほしいなら、
私は自分の島で作る何かと、 
誰かの作るコーヒーを
取り引きしなければならない
(例えば私が大工だとする)。

もちろんそのためには架け橋が必要だ。
しかし どんな橋でもいいわけではない。

木の家具を運べる橋が必要だ。
ロープの橋では無理だろう。
実際のところ、倒れた丸太は問題外だし
狭い木橋も無理だろう。

コーヒー製造者はほとんどの橋を
使えるだろうが、私の作ったものは
大きな橋が必要だ。
隣の島の石屋の場合は
相当頑丈な橋が必要だ。

 リック・ジョイナーが かつて
言っていたが、ミニストリーのために、
神が彼をどこかに送り出す時、

彼の関心事は

人々が彼をどのように受け入れるか

だそうだ。

もし彼らが彼を牧師、

またはミニストリー指導者として

見るなら、彼がもたらす以上のものを
彼らは受け取るだろう。

もし、彼らが彼を預言者として

見るなら、もっと大きなものを
受けるだろう。そしてもし、

彼を使徒として迎えるなら、

彼らにとって全部の兵器庫を
もたらすことになる。

リックは彼らと彼との架け橋が
どんな種類か見ているわけだ。

もし、それが神のことに

あまり理解がなく、

ほとんど信頼をおいていないなら、

それは小さな架け橋で、
小さなミニストリー、
ただの牧師としての奉仕しか
できないことになる。

何度も訪れるうちに

その橋は強くなり、

使徒的ミニストリーを

支えるものになる。



 もし、私があなたとまったく

関係がないなら、神があなたに

与えた任務のために

あなたに教え、強め、励まし、

整えることはできないだろう。


同じように 私もあなたから力や、
励ましを受けることは不可能だろう。

専門的にミニストリーをしている人

もいるが、ほとんどが 聖書の啓示や

預言の言葉を支持する架け橋を

持っていない。


 私が何人かの人々と話す上で、

一番にしなければならないことは

彼らと関係を築くことだ。


彼らと一緒にいるのが 二、三分かも
しれないし、一時間かもしれない。

だから早くその仕事を

しなければならない。


私はジョーク、話、実例を使って
その仕事をする。
幸いにも私は教える賜物を
神から与えられているし、
聖霊は彼らの内に住まわれる
のがお好きだ。

聖霊はその仕事を私よりも簡単に
素早くされる。こうは言っても、

ある程度時間がかかるのは確かだ。


また、私が彼らに
何か価値あるものを
持って行きたいなら、

橋が必要だ。


イエスでさえ、
ユダが30枚の銀貨を取りに
出かけた後、最後の晩餐で
受けた啓示を 全ての皆には
明かされなかった。

最も信頼していた11人の中の
3人にだけ、その重要な秘密を
明かされたのである。

それを聞くことができるのは

彼らがそのような関係を

持っていたからだ。


 聖書にある他の例としては

第一コリント3章

を見ると良いだろう。

パウロは「このミニストリーを
するためには、あなたの橋は
不完全だ」と言いたかった
のだろうと私は思う。

彼らは「ただの人」のように
歩んでいたので、パウロは
より重い問題について彼らに
教えることができなかったのだ。

同じことがへブル書5章も

同じことを言っている。


また、スケワの7人の息子達は
重過ぎるものを運ぼうとして、
関係の橋を壊した良い例と
言えるだろうし、
ステパノはその逆の例だろう。

最近、私は とある
クリスチャンの兄弟に
注意するために、
きついことを言う必要があった。

実は二年前にもそのことを
言ったのだが、私達の関係は
その言葉の重みに耐えうるだけの

関係がまだできていなかった。


それからの期間で私達は

関係を築き上げ、

彼はやっと人生における
その問題について

私が話すことを受け入れた。


そして今度は、その言葉の

重みを支えることができる

関係が私達の間にできていた。


彼には変化する
時間が必要だったのだ
(それは二、三年を要したが)。

私達は友達関係を保ち、
今は互いの人生について
話をしている。

そこで質問だが、

私とあなたの間には

この多くの肉を支える橋が

できているだろうか?


実際にはたいした重さではないが、

私達はまだ互いに共通する

多くの体験を持っていない

ということだ。


私はこの友達の言葉について
長い間考えました。
その後で私はリーダーの助言を
受け入れなかった知人達のことを
考えました。

彼らはリーダーと強い人間関係を
築いていなかったからです。

ある人々は教会を変えましたが、
不幸にも誰の助言も
聞き入れることができませんでした。

多くの牧師達は信徒のことを
理解していないので、彼らの
助言は信徒を傷つけたり
威嚇したりすることになるのです。

私は 「道行く人々に
地獄の裁きを大胆に述べる
伝道師」のことを思いました。

彼らは人々を呼び止めて

名前を聞くこともなく、

思いやりを持った行動を

するわけでもありません。


私は 「通りで怪我した人々を癒し、
見ている人に癒されることを証明し、
その後 立ち去る癒し手」
のことを考えました。

そして私はこの結論に達しました。

ミニストリーというのは

人間関係から流れるものだと。


 私達が 本当に 

癒しのミニストリーをしたい

と願うなら、どうすれば

人間関係の架け橋を

発展させることができるか

学ばなければなりません。


たとえそれが小さな橋であっても、
彼らは私達を信頼する根拠を
持つに違いありません。

癒しは天の御国における
彼らの人生の始まりです。

癒しや解放の後、彼らは
訓練が必要となるでしょう。

誰がそれをするのでしょう?

私達が彼らと関係を持っているなら、
それをサポートするのは私達です。

関係を保つミニストリーを
持つための方法が必要です。

そのようなミニストリーは

どうすれば見つけることが

できるでしょうか?


 効果的な見本を探すうちに、
私はイエスのなさった方法を
考えました。彼は様々な方法で
人々を癒されました。

病人の方から彼に近づいた

ことがありました。

病人の家族が彼に助けを求めた

こともありました。

いずれの場合も、

彼はご自分が誰なのか

わからせる必要は

ありませんでした。


彼らはイエスに癒す力があり、
彼を信頼していました。

イエスのされたことは
彼らに癒しの力を
解き放つことだけでした。

しかし、時には彼のことを何も

知らない新来者も癒されました。

では、イエスは どうやって

彼らの信頼を得たのでしょう?


 私が気に入っている手本は、
ヨハネ4章に記録されている
サマリアの井戸で
彼が出会った時のことです。

これが二人の出会いの
簡単な概略です。

・イエスはユダヤを去り、
サマリアを通って
ガリラヤに向かっておられる
(3~4節)。

・ある女と井戸で出会い、
水を飲ませてほしいと頼まれる
(7節)。

・彼女は彼の頼みに
不快感を持つ(9節)。

・彼らは水の性質について
議論する(10~15節)。

・イエスは彼女の現在の恋人と
以前の夫に関して預言される
(17~18節)。

・彼女は彼を預言者だと認める
(19節)。

・彼らは宗教的な慣例について
議論する(20~24節)。

・彼女はメシアの話題を持ちだす
(24節)。

・彼は彼こそがメシアだと
明らかにされる(25節)。


 イエスは初対面の人を選び、
数分間でご自分がメシアである
ことを彼女に確信させました。

私達は人々に自分達がメシアだと
確信させる必要はありません。
私達の任務はそれよりずっと
楽なものです。

私達は優しい言葉と行動を通して、
彼らを気にかけていることを示し、
イエスの癒しの力で彼らを
祝福するだけでよいのです。

 私は簡単なことを提案します。
数分の時間を取って下さい。

その人が癒されてほしいと

あなたが思っていることを

相手に教えてあげて下さい。


彼らがけがをしているなら、
どうしてそうなったのか
聞いて下さい。
天気や彼らの子供のことを
聞いて下さい。
あなたと彼らの共通点について
何か聞いて下さい。

悲しみが見えたら、

そのことについて聞いて下さい。

不安を感じ取ったなら、

何が怖いのか彼らに聞いて下さい。


彼らの言うことに耳を傾け、

思いやりを持って答えて下さい。


 知らない人に
働きかけようとする前に、
信頼の橋を確立するための
時間を作って下さい。

人々は あなたがどれほど

彼らを気遣っているか知るまで、

あなたが知っていることに

関心を持たないものです。


星空 スマイル キャンパス

完璧な人生なんてありません 全て完璧ならそれはもう神さま 人間は何が不完全だろうと 負けないで 清く楽しく美しく 創意工夫で改善したり革新して 変化していくことができる 無限の可能性を秘めています! 幸せになる素晴らしい力は どんな人にも天から与えられてます! 今が大変でうまくいかなくて困難でも 「負けないでほらそこに ゴールは近づいてる!」 愚痴を言ってもダメです 前向きに生きて良くなったらOK

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